Far North Publishers Meeting

Dog Years

なにがみてるゆめ
小山田孝司

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版元より:

小山田氏とはもともと、2017年ころに彼のウェブサイトを制作する機会をいただいたことから関係が始まったが、その時から彼が取り組んでいることに惹かれていたと思う。また、当時から私は写真集というものが好きで、彼の本があったら良いと思っていた。

私は出版畑の人間ではなかったので、本人自ら、もしくは誰かがそれを作ることを期待していたが、何年か考えて、これは私が出さなければ一生出ることはないのではないかと思い立ち、話を持ちかけたのが出版の経緯である。

それが2019年のことで、撮影が始まったのが2020年、撮り終えたのが2023年だが、その間私は何もしておらず、小山田氏が粛々と進めて完成に至った。最終的に被写体の数は287名、撮影を担当した写真家は22名という、とてつもない人数の方にご協力いただいた。1.4kgの元気玉のような本が出来上がった。

本にするにあたっては、デザイナーの米山菜津子氏の貢献がとてつもなく大きかった。最初にこの本の構想の話を持ちかけたのも彼女で、私は最初からデザイナーは米山氏と決めていた。参加してくださった写真家はそれぞれ使用しているカメラも違うなか、フラットにまとまったのがすごい。

マスターピースが出来上がったという実感はあるが、伝わる速度がとても遅い本であると思う。瞬発力がない分持久力に関しては自信がある。何年、何十年か後にどういう見え方になっているのかとても楽しみにしている。(白石)

藤田

20年後に見たらめちゃくちゃ面白いんじゃなかろうか、というのがこの本の第一印象。

今見てももちろん面白い。2000年代前半にpurpleを読んでいて、当時の人々のポートレイトが多く写っていた。人もファッションもカルチャーもよくわからないながらに強く印象に残っていて、そのpurpleは20年経った今も本棚に収まっており、時々見返す。『なにがみてるゆめ』をめくったとき、20年先取りでそういう感覚があったのだった。

現代でありながら未来のようで、20年前のことも思い出す本。それを引き起こしている要因が、被写体のコーディネイトに1点だけ小山田氏が服や装具を加え、演出するという行為なのだろう。スタイリングによって現実と虚構は混ぜられ、時間軸まで混ぜられた。なおこの巨大な本を突然作ると宣言して実行した版元、Dog Yearsの白石氏が良い。こういうことができることに豊かさを感じる。

米山

自分は本書のデザインを担当した。この、軽くて分厚い枕になりそうな「本」というかたちに綴じられたプロジェクトについて、出版しましょうと背中を押してくれたのは版元の白石さんなのだが、著者の小山田氏にはGATEWAY創刊時から色々とお世話になっていて、以前から「やりたい」という話を聞いていた。学生の頃から考えていたことだという。自分のまわりの人を、普段の格好のまま、普段過ごしてい場所で、写真に撮る。ただ、1点だけ、彼ら彼女らに身につけるアイテムを加える。加えるアイテムは小山田氏の私物である。

他の人の服を着るというのは実はちょっと勇気のいる行為だ。その人の家のクローゼットにあった時間や、その人の部屋の香りや、その人の仕草みたいなものが染み付いている気がする。苦手な人の服は正直着たくないし、もし好きな人の服だったらドギマギするだろう。その人が身につけていたものを自分が身につけることで、自分とその人の境界は、服一枚分とは思えないくらい、おおきく揺らぐ。

揺らいだその時間の結果として、小山田氏と被写体の関係性が写真で炙り出される。撮影者はふたりの関係にツッコミを入れる役回りだ。いろんな関係があり、いろんなツッコミがある。思い出話は尽きないだろう。見ていると、見ている側の思い出まで湧き出して来るようなページもある。この本には言葉はいらないと思った。この本を読む人に、ページをめくっていろんなことを思い出して語ってほしい。と思ったときに、白石さんが打ち合わせで同じようなことを言った。チームでなにかをつくる時に嬉しいのはこういう瞬間である。

川崎

作者が友人・知人に声をかけ、その日着てきたコーディネイトに服や装具を一点だけ加えて撮影した写真をまとめたという本書は、スタイリストである小山田さんの作品集である。スタイリストの作品集というと、その多くは過去の制作に関するものが多いが、ここでは加えられたアイテムすら明かされておらず、そもそもスタイリングそのものに焦点が当てられていない。

撮影は、被写体が生活を営む土地あるいは作者と関わった場所で行われ、その背景は生活や親密さを想起させる。それは作者と被写体の関係性を描写しているようにも見えるが、ここでは作者自ら装具を持ち込み、ドキュメンタリーであることも回避している。このように構成要素が複数でわかりづらい構造であるにもかかわらず、本にこれらの説明はなく、現実と虚構の曖昧さを本そのもので成立させている。